昭和五十七年三月二十六日 朝の御理解
御理解第五十七節
金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。
御理解第十一節に、今、天地の開ける音を聞いて眼をさませと。私共が本然と悟らせてもらういう。まあ今日の御理解を頂きますと、神を杖につけば楽じゃと仰せられるね、その神を杖につけば楽じゃ、という心が開けるためには、どうしても真の信心に目覚めさしてもらわなければならん。いわゆるおかげおかげと云うておる間は、まだ信心の眼が開けてないとき、信心の眼が開けるというのはね、いよいよ信心を頂こう、おかげを頂こうじゃなくて、信心を頂こう、その願い、頼みせねばならない、その事は願い頼みしても良いけれども、その願い頼みする事の中から、信心をいわゆる開眼させてもらう。
そこからああそうだったと、こう合点がいき、いわゆる信心の楽しみ、喜びというものが開けてくる。そこまでがいわゆる木や竹にすがるね、もう本当に人にすがる、頼る時ほど辛いときはありませんです。苦しい時ね。もう本当にもう神様一心と心を定めてね、おかげを頂かしてもらう。
そこにはどんな場合であっても、神を杖につけば楽じゃという心が喜び安心ね、又は度胸が生まれてくるんです。あの人に頼もう、この人に頼もうといったような、人やら物やら、頼む間はまあだ、信心の眼が開けていないときです。
それではそういう信心が何十年続いても、いわゆる今天地の開ける音を聞いて眼をさましたということにはならない。もう眼をさまして信心に取り組まなければならない。まあ云ってしまえば、これだけですけれども、そのいろんな過程に於いてね、いろんな事をま、分からせて頂くわけですけれども。
昨日は二十五日の婦人会、いわゆる幹部研修会が皆さんの話を聞かしてもらいました中に、原さんの発表の中に、ある難儀な問題と云うか、人にも話されんような、恥ずかしい話を云ったような意味の事を云っておられましたが、その事を若先生にお取次頂いたというのです。したら若先生が、「原さんそれはあなた、、もうひとつの信心を進めて下さる。云うなら次元の変わった世界に住まわせて下さろうとする働き以外にはないですよ。」という御理解を頂いたときに、ま、本然と目が覚めたと云う意味の話をしてました。
今まで難儀と思うておった事は、本当に一辺におかげであると感じたと云うのですね。そういう体験を積んでいくうちに、それこそ、次元の違った世界に住むことも出来るしね、信心の眼が開けて来るのですね。信心はしておっても、信心のない者と同じようなことに不平を言うたり、不足を云うたり、心配をしたりしとるなら値打ちはないですね。ただ神様をどうぞどうぞと御願いする手だてを知っておるというだけであってね、それでは、神を杖についておるとはいえんのです。
神を杖につけば楽じゃと云うのは、もう今まで悩んでおった、苦しんでおったということが、それこそついたものがはずれるようにね、心の中に安らぎが生まれてくる。神を杖についたから心が安心だね。楽じゃという、神を杖につけば楽じゃということになった。
それにはなら、神を杖につくということがです、どう云うことかと云うと、ま、原さんのそれじゃないけれどもね、はあ、神様がもう一段と信心を引き立てて下さる。云うならば、ま、信心があるものをない者の違い。信心頂いてる者の値打ちを下さろうとする働き以外にはないと。頂いたときに、はあ、そうだったとこう気がつく。一辺に心が楽になった。
今日、私ある熱心に信心する方が、ちょっとこの頃信心がグズついておられるその方をある人が、あの人こそまあ、云うならば、昔日本髪を結う婦人の方の場合、髪をまず先に洗いますね。そしてそれを乾かして、それが又洗い上げて結い上げるわけです。汚れたままは結わん。やっぱすきっと洗ってそして、それを結い上げる。そういう結い上げるこの人はいよいよ、結い上げが出来るなあと、思われるような信心をしておった人の事でございますけれども、最近、ちょっと信心がグズついてるなかと、こう思うような節があるのです。
したら神様からね、”一服もおかげのうちと悟れ”と頂いたです。おかげも一服のうちと悟れと。一生懸命ま、仕事を致しております。そこに一服がある。お茶でも頂いて、次の仕事に移るために、その一服を云うのは大変な事であるね。まあ、一週間一週間に日曜があるようなもんである。
だから問題は、その日曜が一服になるものではなくて、日曜があったためかえって疲れて明くる日の仕事がでけんといったような一服じゃいけませんわけですよね。日曜に遊びほうけたり、飲みほうけたりして明くる日の月曜日に頭が痛いか、ち、いうごたる事ではいけませんけれども、それが本当の一服であり、又一服の清涼剤であると云うおかげを頂かしてもらうことを願がわなきゃね、どうしたことであろうかと。
ある子供の願いをしとられる方が、もうこの頃子供が云うことをきかん。その人が云うておることがね、これも親先生も祈りの圏内にあるのだから、苫、云っておる、それを聞いてから私も、ほんなこつそうだなあと、こう思ったですね。例えば皆さんのなら、子供に限らずま、難儀な事が起こったと致しましてもです。それが親先生の祈りの圏内の中で起きておることだからと、そこに安心しておる。私、そういう安心はね、神を杖につけば楽じゃとは違うと思うんです。この辺のところが、いわば難しいところなんですね。親先生の祈りの圏内にあることだからと、そしたら、神様から、あの今はどげんか知りませんけれど、自転車は昔は鑑札をつけましたよね。”鑑札がもうズンダレ落ちんばっかりの鑑札のついておるところ”をいただいたんです。
もう鑑札を願ってつけておるから大丈夫というのじゃない。云うなら鑑札付けておって事故にあったね。鑑札を付けておるから事故にあわん、ということはないです。事故に遭う、ということは自分の不注意なんです。例えて云うならね、親先生の祈りの圏内、自分の信心は棚に上げて、親先生の祈りの圏内とそこに、安心しておるというなら、これはいかにも神を杖につけば楽じゃといわれるような、ああ信心は有り難い、親先生の祈りの中にあるのだからと安心しておる。その安心と、神を杖につけば楽じゃとは違うんです。
そこのところを一緒んたくりにしたんでは、それこそ味噌も糞も一緒んすると同じ事になるんですね。かと云うて今まで悩んでおった、苦しんでおったのが、御理解を・・・・
原さんの場合はね、いわゆるそこに、次元の違った世界に住むね、次元の違った世界に住むそこに、私はね、神の杖をつけば楽じゃと、それとこれとは違うんですね。かと云うと今申し上げますように、洗い上げて結い上げてと、まあこの方の場合はまあ見事に結い上げが出来るだろうと、こうまあ思うておったところが、ちょっと一服しておるという感じなんですね。
だからその間の事もです、云うならば一服も又おかげと悟れという、今日はこの三つを中心にしてお話聞いて頂いとるわけです。この辺の頂きわけが私はいると思うです。
これは神様が一服さして下さってあるんだと、云うならばそん事にも御礼がいえる。その代わり、その次の飛躍というものはさあと、こう云うならば一服した後に又元気がでて、その次の仕事にとりかかれるようなものが、内容になからなければいけないね。そういうおかげを頂いてるのに、どうしたことやろかと、だから云うこともいらん、一服しとる事。それもおかげのうちと悟らせてもらうね。
かと云うと、自分の自転車には鑑札がついてるからというて、なら鑑札がついとりゃ、事故にあわんかという事はないのでからね。警察からとがめは受けないにしてもですね、事故に、ということは自分の不注意と云うこと知らなければいけませんね。
この辺のところがね、まあ様々なところを通ります。云うならば、それこそ、信心の開眼というかね、いわゆる、今天地の開ける音を聞いて眼をさまして、もう神様のおかげを頂かなければ、たちゆかんのだと、いうところから、いよいよ神様の心を心とする生き方を身につけてゆくね。
もう信心、云うならば一筋に進んでいく、その過程の今日皆さんに聞いていただいたような内容がやっぱりあるということなんです。
昨日、研修の時に、森部の高山さんが御夢の、ち、いうたらいいやほんなこつというわけですけれども、そのお座敷にそのモグラがあがっとったち云うんです。モグラち云えば、土の中ばこうやっていくあの、そりゃあ、もう、嫁が頓狂な声をあげて、びっくりしておるところで、そりゃまあ、取り除いた。モグラがどうして座敷に上がって来たじゃろかと、そん話を聞きながら、なら私は思うた。
ははぁ、合楽で土の信心土の信心とこう云うけれどもね、ハハァ土の信心にもこりゃモグラがあるなあ、と思うたですね。どんなに素晴らしい土の信心をしよっても、モグラからやられたら蒔いたもの、種でもなんでも食べてしまうし、根でもなんでもかじってしまうわけですから、こりゃ、土の信心だからと云うて安心なでけんなという風に。
合楽で云われる松の信心、と云うてもね、これは最近あの松の木だけしかつかんという虫がおるというのですからね、こういうところもやはり、いつも信心に油断はどんな心を開いても、信心一筋と頂いておっても、人間の事ですから、どこにお粗末御無礼があるやらわからん。いつ松虫にやられるやら、いつモグラに荒らされるやらね、その真の信心はいよいよ真の信心と確固たるものを、いうならば信心の確立がでけていく、その過程の事を今日は聞いて頂いたんです。
同じ事のような事ですけれども、それはあまりにもの信心じゃということになったりね、それはいかにも安泰、安心しとるごとあるけれども、自分の不調方でいうならば事故におうとってから、これも親先生の祈りの圏内というのは、おかしいじゃないかということやら、又一服しておるときに、あらあらどうしてということはいらん。その一服の後に飛躍する。一服も又おかげと分からしてもろうて、御礼が云えれるようなしんじんね。
確かに私共の頂いとる信心は、そりゃ、ま、簡単に云えば、木や竹は折れる、神を杖につけば楽じゃとおっしゃるが、もう私こそ神様一心、と云うておっても、そこに本当の意味においての安心、喜びがないなら、まあだ神様一心と云ってるのではないのだ。まあだどこにか、木や竹にすがる頼ろうとしておる、これではいつまでたっても、いよいよ神を杖につくということにはならないね。
まあ、神を杖につけば楽じゃとね。だから自分は神を杖についとるから、楽だ、と思うておる。その楽の中にもね、油断はならぬということを今日は聞いて頂いたんですね。 どうぞ